
は じ め に
「大和高田のだんじり」作成・管理人: yone1234 こと 米本昌弘
このサイトでは、奈良県大和高田市の天神社秋祭りで、
宮入曳行(えいこう)される上地車(かみだんじり)を紹介しています。
地車(だんじり)が曳行されるお祭りは、
泉州・摂津・河内を中心に兵庫や和歌山など広い地域で行われています。
奈良県内でも地車曳行が行われている地域が数多くあり、大和高田でも、
旧・高田町内の地区では、上地車 の 「本町壱」 や 「高田」、 下地車の
「大和」 「橋室」(2017年〜) が、 旧・高田町以外では 「奥田」や「池田」
「根成柿(ねなりがき)」 などで曳行されています。
※ 「奥田」=初期の住吉型(7月7日「蓮取り行事」にあわせて所曳き)
「根成柿」=堺型
「日之出」・「曙町」・「池田」・「市場」・「曽大根」・「田井新町」=町内地車
「大和」=平成12年(2000年)、有志が岸和田市大町で曳行されていた下地車を購入し
「大和地車保存会」として運営。大和高田初の下地車。
「橋室」=平成29年(2017年)から、有志が岸和田市積川町で平成27年(2015年)まで
曳行されていた下地車「橋室」を購入し、「橋室地車保存会」として運営。
「大和」に次ぐ大和高田で2基目の下地車。
※ 大和高田市で上記以外の地区に地車がありましたら、ぜひ教えて下さい。
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ご存じのとおり、「地車祭り」と一口に言っても、地車の型や曳行の形態、衣装、お囃子のリズムや
掛け声等が、地域によって随分異なります。 大和高田でも、旧高田町地区と、「奥田」や「根成柿」など
では、お囃子や掛け声が異なります。
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私が生まれ育ったのは、大和高田の中でも江戸期より経済活動が盛んで、
時代とともに発展してきた旧「高田町」地区です。その歴史は後述するとして、
この地区の郷社である天神社の秋祭りには、時代装束による神輿(みこし)車
のお渡り(渡御)とともに、「高田」の町なかを練り歩く地車曳行が行われます。
♪コンチキチ、コンコン……と 練り歩く速さに合わせた 鉦(かね)・小太鼓・
大太鼓による絶妙なお囃子のリズム、地車を曳(ひ)く子どもたちの昔から
変わらぬ掛け声、浴衣(ゆかた)に雪駄(せった)の曳行衣装など、旧「高田町」
地区が伝統的に持つ独特の雰囲気や味わいを、この秋祭りの地車曳行を
通して感じることができます。 私が、天神社宮入の上地車に魅せられる
最大の理由は、まさにこのところにあります。 |
さて、私が小学生だった昭和50年代のその秋祭りでは、
現在も曳行されている 「本町壱」・「市町」( 市町四丁目 / 現「高田」 ) の他に
「宮元」 や「日の出」等、もう1,2基ほどの地車が出ていたのを覚えています。
また、時期の詳細は不明ですが、大正初期までは「新町」(現 永和町付近)、
昭和初期〜戦前あたりまでは「本郷」や「横大路」「元町」「旭町」「本町三・四
丁目連合」等の地車が何基かあったようです。
昭和3年撮影のガラス乾板には、昭和天皇御大典奉祝で高田駅(現・JR
高田駅)前に集まった「本壱」「高砂町」「本郷二」の提灯がかかる3基の地車と
町名が不明の2基の地車(うち1基は「横大路」ではないかと推測)が、
また旧高田川沿い(現・中央道路)をゆく「元町一」の提灯がかかった地車、
古川橋(現・南本町交差点付近)をゆく町名不明の大型の地車が写っています。
昭和12年に発行された「高田郷土史話」(堀江彦三郎 著)には、
天神社の秋祭りでは、
「各町から地車が七ツも八ツも出て賑(にぎは)うた」
との記述があります。
※ 「宮元」=堺型。平成元年ごろに曳行休止、平成5年ごろに廃絶。
「日の出」=昭和40年代後半〜50年代前半製作の手作り地車。
近年は、日之出二丁目・一丁目の共同で「日之出」として曳行。
「旭町」=堺型(参考文献の写真より推定)。昭和30年頃まで曳行か。
「新町」=大和型五枚板。大正初期に富田林「五軒家」へ。現存。 |

昭和30年の曳行風景(宮元)

昭和54年の曳行風景(本壱) |
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しかし、いま、旧「高田」地区の独特な雰囲気と味わいを持つ地車は、
「本町壱」と「高田」の2基だけになってしまいました。
少子高齢化、町内組織の変遷、祭りへの価値観の変化など、様々な要因
が考えられますが、いずれにしても実に寂しく残念なことです。
この地区の地車は、岸和田のように全国的に有名なものではありません。
しかし、歴史ある「高田」という地に根ざし、そこに暮らす人々の間で連綿と
受け継がれてきた伝統ある庶民文化です。
この身近で親しみある「高田」の庶民文化が、次の世代へも受け継がれる
ことを期待して、平成21年(2009年) 8月15日にこのサイトを立ち上げました。 |
――― これより下の文章は、大和高田の簡単な歴史と旧「高田」地区の秋祭りについてです。
ご興味がおありでしたらお読みください。 ただし、未完成ですのであしからず ―――
四方を青垣山で囲まれた奈良盆地。
大和国中(くんなか)とも称される地の中西部に位置する大和高田市。
大和高田市は、戦後、昭和23年に奈良県では奈良市に次いで2番目に
市制を敷いた町で、県中南和の中核都市として今日に至っています。
古くは平安時代初期の「蓼田(たでた)郷」を発祥の地とし、近世からの
高田村(明治22年に高田町)を中心として、明治34年に浮孔村の三倉堂、
昭和 2年には土庫村と松塚村、昭和16年には浮孔村と磐園村、さらに、
昭和31年には陵西村、昭和32年には天満村と広陵町の池尻 ・藤森を
編入して、今日の大和高田市を形づくってきました。 |

旧「高田村」の地図 |

高田町時代まで「本郷」と「寺内町」
の往来は「古川橋」が中心だった |
その中核でもあった高田村(のちに高田町)には、
村を南から北へと流れる川 ( 旧「高田川」 / 現在の県道大和高田 ・ 斑鳩線
通称「中央道路」 ) があり、慶長年間(1596〜1614)に川の東側に農業を基盤と
する「本郷」が村落を形成。一方、川の西側には、横大路沿いの長谷本寺の
周りに集落があり、江戸初期には高田御坊と呼ばれる専立寺(せんりゅうじ)を
中心に寺内町が形成されました。そこに商工業者が集住し、のちに本町と
なる「寺内表町」や市町となる「寺内裏町」で構成される “商(あきな)いの町”
となりました。
古くからその地で生活を営んできた農業中心の「本郷」対し、寺内表町や
や寺内裏町の「寺内町」は周辺の村々から「商い」のための新天地を求めて
転入した人々による新興の町。高田村では、川をはさむ東西に性格の異なる
社会が併存していました。慣習・風習・ものの考え方、様々な点で異なること
が多かった「本郷」と「寺内町」。お互いに意識し、刺激し合うことで、
高田村を発展させていきました。
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また、西は竹内峠(たけのうちとうげ)に、東は初瀬街道(はせかいどう)
に続く大和国中を東西に横切る古道沿いに「横大路村」(よこおおじ/
高田では「よこをち」「よこうち」と呼ぶ)が形成されました。
「横大路村」は、当初、農村として成立しましたが、南隣の地域が
農地開拓されて村(のちの三倉堂村)を形成すると、「横大路村」は農業
活動に不利な点が多くなったこともあり、江戸期には街道沿いという地
の利を生かして庶民的な商業活動が盛んになりました。「横大路村」の
東には「新町」という新興の街道町も生まれました。「新町」は、高田村
の「本郷」と隣接しており、「本郷」から「新町」に移り住んで、商いを
興す者もありました。さらに、近在の農村や町からも商売をするために
転入する者も多くいて、高田村の「寺内町」のように活発な商業活動が
行われた地でもあったとのことです。
「横大路村」は、江戸期の寛文6年(1666年)に高田村と合併しました。 |

「横大路」と「寺内町」を結んでいた
旧高田川「雛倉橋」の碑 |

明治初期までの天神橋付近は
人家がほとんどなく林や藪が多かった |
上で述べた、高田村の中心であった「本郷」と「寺内町」、そして、街道町
として栄えた「横大路」と「新町」、これら地区近辺には数多くの人家や商店
が建ちならび、人口も周辺の村々より多く、また、古くからの条里制や近世
の検地によって土地がある程度整備区分されていたこともあり、「丁」単位
の共同体的組織 (今で言うところの「町内会」) が早いうちから発達していた
のではないかと考えられます。
さて、新しい考え方を持つ先進的な商人がこの地に活況をもたらし、周辺
地域にも影響を与えるほど経済的な面で進化する高田村でしたが、人々の
生活の中には、昔から変わらぬ保守的な要素も色濃く残っていました。その
一つに、氏神さま(郷社)とのつながりが挙げられます。例えば、横大路村が
高田村と合併した際も、横大路村は決して氏神さまを変えることはしません
でした。それぞれの氏神さまは、高田村は「天神宮 (現 天神社)」、横大路村
は「竜王宮」( 市内唯一の延喜式内社 「石園坐多久虫玉神社」 ) で、それはこの
“平成”の世でも変わっていません。
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♪村の鎮守の神さまの… と懐かしい歌にもあるように、氏神さまと
人々の生活は密接に結びついていました。また、江戸時代末期、伊勢
神宮の御祓札(大麻札)が天から降ってきたと民衆が昼も夜も狂喜乱舞
した「ええじゃないか」の影響で、周期的に起こっていた集団での
伊勢詣(もうで) “おかげ参り” が一層盛んになりました。
この頃、「高田」のほぼすべての地域では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)
を祀る「太神宮(だいじんぐう)」信仰が広まり、中でも「寺内町」
(のちの本町・市町や元町)は盛んで、商売繁盛と町内安全を太神宮さん
を通して伊勢神宮へ祈願していました。現在もその風習は残っていて、
太神宮さんは毎夜献灯され(常夜灯)、隔月のお祭り日には町内の人々
によって丁寧にお供え物や飾り付けがされています。
氏神さまや太神宮さんは、この町の人々にとっては、何か改まって
信仰するという対象ではなく、日常の一部、日々の暮らしに溶け込んで
いる身近な存在です。 だからこそ、氏神さまや太神宮さんのお祭りは、
この地の人々には欠くことのできない大切な伝統行事なのです。
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太神宮のお祭り (元町二) |

高田天神社の神輿車(右) |
さて、旧「高田」地区には多くの神社が点在していますが、高田村の時代
から中心だったのは、郷社の「天神社」。 先にも述べた「氏神さま」です。
その秋祭りでは、時代装束姿で天神社から南町(本町壱丁目)の春日神社の
御旅所までの、神輿(みこし)の「お渡り(渡御)」が伝統的に行われています。
(地元に残る化政年間頃のものと推定される文書にも、「神輿の御渡り」についての
記載があります。)
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このお渡りの神輿は、大正初年に、担(かつ)ぐ神輿から 曳(ひ)く神輿車へと姿を変えて現在に至って
いると伝えられていますが、秋祭りには神輿のほかに「高田」の各町から地車が曳きまわされていたことが
上でも引用した昭和12年発行の「高田郷土史話」や、その記述をもとに再編集されたと思われる昭和33年
発行の「大和高田市史」の記載内容からうかがえます。
「若衆によつて御輿(みこし)が天神社から担(かつ)ぎ出されて、伊勢音頭も賑やかに
各町を渡御(とぎょ)の上、南町の春日社前御旅所へゆく。時々『暴れ御輿』といつて暴れ廻(まわ)り、
平素村方から憎まれてゐる家へ棒の鼻を突込んだりした。又、大山(葛城川堤)まで持つてゆき、
そのまゝ御輿を放(ほり)出して帰るため、神主は神輿の守護に堤の上で夜を明したこともあつた。
その後乱暴を封するため、明治二十年頃立派な源氏車を新調し、次いで今の御輿車(みこしぐるま)
となつた。又、各町から地車(だんじり)が七ツも八ツも出て賑(にぎは)うた。」
(昭和12年発行 堀江彦三郎著「高田郷土史話」P.218より引用)
「高田町では若衆によって御輿が担ぎ出されて、伊勢音頭で各町を渡御の上、
南町の春日神前御旅所へゆく、昔は背に巴の紋のあるそろへのハッピでかついだ。
時々「暴れ御輿」といって暴れ廻り、又、大山(葛城川堤)まで持ってゆき、
そのまま御輿を放出して帰るため、
その後大正初年から御輿車となり、各町から地車が七ツ八ツ出て賑うた。」
(昭和33年発行「大和高田市史」P.447〜448より引用)
現在では、神輿車のお渡りと地車曳行は別々に行われていますが、
「高田」の歴史に詳しい地元の方のお話によれば、戦前までは、お渡りに各町の地車が随行する形で
祭りが行われていたそうで、パレードのように賑やかなものであったことが想像できます。
| 【 参 考 文 献 】 |
「大和北葛城郡史 上巻」 (明治37年発行・北葛城郡役所 編) |
「高田郷土史話」 (昭和12年発行・堀江彦三郎 著) |
「大和高田市史」 (昭和33年発行・大和高田市史編集委員会 編) |
「大和高田市 市勢要覧」 (昭和33年発行・市長公室企画広報係 編) |
「改訂 大和高田市史 前編」 (昭和59年発行・大和高田市史編集委員会 編) |
「改訂 大和高田市史 後編」 (昭和59年発行・大和高田市史編集委員会 編) |
「改訂 大和高田市史 資料編」 (昭和59年発行・大和高田市史編集委員会 編) |
「奈良県の太神宮常夜燈」 (平成9年発行・荒井留五郎 編著)
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